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《 ぜんりんしゃ カレント コラム 》


児童書の読書(読書について3)



 いまさら「読書は最強だ」などといっても その本当の《凄さ》は なかなか伝わらない。もちろん 点数を上げるために本を読むと考えるのは本末転倒だし、とにかく本を読めば それが読書だという訳でもない。言うまでもなく ライトノベルは娯楽に過ぎず、むしろ逆に精神力が萎えてしまうから怖い。読書についての詳しい指導書を開いても、通常は 本の見分け方・選び方については それこそスルー(through)されていて、「好きな本をたくさん読め」ぐらいにしか書かれていない。そもそも 読む方から見た読書論なのか、書く方から見た創作論(文学論)なのか、専門家の頭の中もゴチャゴチャなのだろう(!?)。

 ところで、「二十四の瞳」(壷井 栄)を読んで驚いた。昔読んだのは ほんとにこの本だったのだろうか? それこそ 慌てて(!)蝉林舎にある この人の本を数冊たて続けに読むことになったが、どれも同じ感想だ。最近の児童書とは かなり違う。たとえて言えば、近年食べ慣れた ハリのない小さな促成栽培のピーマンのなかに、突如 昔の有機栽培の青々とした大きなピーマンを見つけたような驚きだ。香りも味も栄養も別物。生命力の違いか。
 こんなにも子供の本は変ってしまっていたのか! 何が違うのか。登場人物なのか、作者なのか、書かれた時代なのか。

 蝉林舎のホームページに書いたとおり(!)、勉強と同様に 読書においても 「娯楽」と「遊び」は別物なのだ。 以前 この欄に投稿した「思考言語への第一歩」から 以下の一文を引用する。
  「小学生までの 《ストーリーにひっぱってもらう 楽しい読書》 と違って、中学からは 《立ち止まり・立ち止まりして、自ら一歩一歩イメージを作ってゆく 楽しい読書》 が ほかのどの教科よりも大切になってくる。」

 音楽でも本でも、鑑賞に値するための最低条件は「作った人の人格に出会えるかどうか」ということ。メロディーやストーリーにひっぱってもらうポピュラー物に いくら接しても作者の人格には出会えない。どれだけ深く、まともな本・まともな人格に出会う経験を積めるか。成長途中の貴重な時間、無為のまま二年や三年はすぐに過ぎてしまう。
 作者にしろ作品にしろ、《しっかり足が地についているもの》を探すこと。 《一生懸命読むのに見合う まともなもの》を探すこと。
 もっぱら このことを意識して「良い本」を探しているが、続々と見つかる。ファンタジーものは、創作論(文学論)的には高く評価された作品でも 必ずしも中学生に良いとは限らない。(まともな本であれば)そもそも文を読みとること自体が すでに高度に創造的・想像的な行為だからだ。(このことは後日 別な機会に述べることになる。)
 「二十四の瞳」の例のように、一般に ある程度 時代をさかのぼったものの方が「足が地から離れ」にくい。舞台背景が都市化しきっておらず、生活が生産の場に近いからだ。(最近の作家は 作品が軽薄にならぬよう さぞ大変なことだろう。・・・これは少々皮肉を込めて。)  幸い蝉林舎には昔からの書棚があるので 素晴らしい本が何冊も見つかる。(現在は絶版になっているものも多く、インターネットで見つけると かなりの値段がついていることがある。きっと 探している人も多いのだろう。)

 さて、これは実際の話。 ある期間 「一日一冊」と決めて ほぼ毎日読んでも 子供の頭は壊れない。それどころか 飛躍的に成長する。


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